関東大震災における箏・三味線・尺八~雑誌『三曲』より

邦楽の雑学

1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災から今日で100年になります。当時の雑誌から、和楽器がどのような状況に陥ったか、振り返ってみます。

雑誌『三曲』と関東大震災

邦楽雑誌『三曲』は1921年7月に尺八師匠藤田鈴朗によって創刊され、1944年まで続いた長寿の邦楽雑誌です。全国の三曲師匠が購読し、情報を寄せていましたので、この雑誌によって、戦前の三曲の様子を知ることができます。

『三曲』が2周年を迎えた直後の9月1日、関東大震災が発生し、藤田が東京で発行していたこの雑誌は休刊を余儀なくされます。2カ月の休刊を経て11月に臨時号に発行され、震災時の状況や首都圏の三曲師匠の情報が掲載されました。しかし、復刊は翌年の7月号まで待つことになります。

『三曲』復刊

1924(大正13)年7月号は、雑誌創刊3周年と震災復興を合わせて記念した号となりました。

この号はあまり震災色の強いものではなく、休刊の期間に考察された論考が多くを占めるのですが、後書きである「鈴朗雑記」に震災時の和楽器の状況が描かれています。

雑誌の記述を引用しながら、状況を確認してみましょう。

なお、雑誌の文章そのままでは読みにくいので、漢字は常用漢字に改め、旧仮名遣いは現在の仮名遣いに改めました。また、藤田は「箏」について「琴」の漢字を使用していましたが、そのまま掲載しています。

尺八

三曲の楽器、つまり、箏、三味線、尺八の中では、尺八が最も被害が少なかったとされています。

「中でも尺八の復興は目ざましく早かつた。昨年十一月の震災号で云つた通り尺八に悲観材料は少かつた、山の手方面の専門家は可なり賑つておる、多くの下町からの移住者の関係もあるが元来尺八家は自発的にやるのが多いのと、熱のない者は淘汰(原文は汰淘)されるので眞個のスキ者が稽古を続けておるのと又バラツク時代にも決して不似合ではないと云う独歩の境にある楽器なども原因していたに違いない」

『三曲』第28号(1924年7月号)54頁

以上のように、尺八は虚無僧の楽器という歴史的背景と、「自発的」「独歩的」な師匠が多いということを理由に、震災にあまり影響されずに教授が行われているということでした。下町で焼け出されて移住している師匠もいるので、影響がないわけではありませんが、他に比べれば影響が小さかったということなのでしょうね。

例えば、尺八都山流の創始者である初代中尾都山は、震災後の焼け野原を見て《木枯》という曲を作曲しています。荒涼とした東京の芝公園で11月に作曲したということですから、2カ月たっても元通りには程遠かった状況がうかがえます。

箏は、尺八と違って厳しい状況でした。

「琴は兎角貴族的お上品という因習的観念が相当邪魔して所謂此際の言葉には敬遠されそうな形であつた」

「あの二百万以上の人が逃げまどう騒動の中を琴をかついで命カラガラ逃げて行くと云う図は余りいい図ではない、それだけ楽器として尺八に比して損であつた」

「琴は材料がないので大分関西物が来たが出る方はマダボツボツとの事である」

『三曲』第28号(1924年7月号)54頁

箏はもともと雅楽で使われていた楽器が、江戸時代になって庶民の楽器になったものなので、「因習的」に貴族的・上品というイメージは仕方がないかもしれません。

二つ目の引用については、実際、師匠が箏をかついで逃げたというエピソードがあるそうです。そんなときにと思われるかもしれませんが、何より大事なものであったということなのでしょう。しかし、持ち出すことは困難で、懐にさっと入れて走って逃げられる尺八とは比較になりませんね。

三つ目の引用は、楽器製作の問題でしょう。焼失した箏が多かったと思われますから、早急に新しい箏が必要とされていたのだと思います。

先ほどの尺八と比べると、二重三重に厳しい状況でした。

三味線

三味線も箏に近い状況だったようです。文中の「三弦」とは三味線のことです。

「三弦は幾十の花柳界でも夥しい数を失った、琴屋は之の復活で息をついたが三曲界でも琴より三弦の方が手を出し易いか大分動いたらしい」

『三曲』第28号(1924年7月号)54頁

三味線の記述は少なかったのですが、引用部分については、前半で花柳界、後半で三曲界について述べています。

三味線と一口に言っても、花柳界で使われる三味線と三曲の三味線では楽器の種類も音楽の種類も異なっており、三曲の場合は地歌の三味線が使われます。

また、三味線を扱う楽器店はどちらの三味線を製造・販売します。また、琴も販売します。つまり、多種目の三味線と箏を扱う楽器店があり、それは、花柳界の三味線を至急、製造・販売するということで、箏の需要は伸びなかったけれども採算がとれるようになったということになります。

そして、三曲界でも、箏はあまり売れないが、地歌三味線は少し需要があり、楽器店の商売が成り立ったということかと思います。

まとめ

以上、当時の雑誌の記述から、三曲の楽器の動向を探ってみました。師匠と生徒たちが被害にあい、苦労したということはもちろんありますが、それは機会を改めて記事にするとして、今回は楽器について振り返りました。

箏・三味線・尺八は、三曲という複合的なジャンルで共通の演奏機会が非常に多い楽器です。ですが、それぞれ独立した音楽種目でもあり、別個の歴史を持っています。携わる師匠についても、尺八は男性が多く、地歌箏曲はこの時代には男性だけでなく女性も多く、盲人もいました。

このような背景の違いによって、震災後の困難な時期に明暗を分けたのでしょう。

三曲はこの後、急速に復興し、年末には一流演奏家が勢ぞろいした三曲名流大会も開催されました。困難を克服し、この後、昭和の時代に入っていきます。

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